Aeonのシミュレーション仮説話の超訳(Hacker News)。シミュレーション仮説は、タイムパラドックスのようなものなのかも。ジェインウェイ艦長も言っていた。「タイムパラドックスを解消する方法は簡単よ。考えないこと」。まさに、シミュレーション仮説も「考えないこと」なのかも。
人類は永遠には続かないだろう。いずれにせよ、人類は宇宙から消えることになるだろうが、その前に詳細なまで鮮明な人間としての体験をエミュレートできる十分な計算能力を集めようとするかもしれない。哲学者や物理学者は、すでにそれがあり得るかどうか考え始めている。我々はコンピュータシミュレーションの中にいて、経験する現実はただのプログラムの一部なのかもしれない。
現代のコンピュータ技術は非常に洗練されており、量子コンピュータの到来で、さらに洗練されていくことだろう。より強力なマシンで、我々は完全な生命体(人間でさえ)を含む複雑な物理システムの大規模シミュレーションを実行することができるだろう。しかし、どうしてそこでやめるのか?
その考えはそれほど馬鹿げているわけではない。ある哲学者は、我々がコンピュータハードウェアの最終的な複雑さを認めるなら、我々は既に「アンセスター・シミュレーション」(人間の過去の仮想施設)の一部である可能性が高いと主張した。その一方で、原子核物理学者らは、あらゆる科学的なプログラムは仮定を単純化しているという考えに立ち、この仮説を検証する方法を提案している。もし、我々がシミュレーションの中に生きているなら、その考え方は、これらの仮定を検知するための実験に利用できるだろう。
しかし、これらの論理的かつ実験結果の見方として、我々が違いを見分けることができず、シミュレーション内に生きているという可能性を残している。確かに、提案されたシミュレーション実験の結果は、可能性としてシミュレーション世界に住んでいないことを説明できるかもしれない。とはいっても、疑問が残る: 我々はシミュレートされた人生を生きているのか生きていないのかどうかを知る手段はあるのだろうか?
未来のある時点で、知っての通り人類は消滅するだろう。我々は進化した子孫がいなくなって絶滅するか、あるいは一人もしくは複数のポスト・ヒューマン種を我々の継承者として委ね、我ら人類は最終的にいなくなるかどちらかだろう。しかし、もし我々が子孫を残せば、子孫がアンセスター・シミュレーション(意識ある人間が居住する仮想宇宙)を作りたいと思うかもしれない。そして、そのようなシミュレーションを作る技術が十分に一般的なら、シミュレーションの一人の経験が実際に現実の中で存在している人類の一人の
経験を数で圧倒するということが非常に急増するだろう。
あなたが偶然にも一人の意識的経験を持っていることを自分自身で見つけたら、面白い問題を提示する: どのようにあなたは、自分が現物の人間の一人なのか、アンセスター・シミュレーションなのか、特に後者がはるかに多く存在するような場合、それを知るにはどうするのか? 哲学者のニック・ボストロム氏はこの問題についての考え方の枠組みを提供している。彼は三つのうち一つが真実であると判断しなければならないと主張している。人類もしくは人類類似の種がシミュレーションの開発技術レベルに達する前に滅亡している、またはポスト・ヒューマン文明がこの技術を作りまた使用することに関心を持たない、あるいは我々自身がおそらくシミュレーションの一部である、のいずれかである。おそらくなぜなら、万物は平等で、意識的経験がシミュレートされた経験であることの方が確率は大きい。他の二つの条件(消滅または無関心)が間違いなら、より多くの手段があるだろう。
提案されたシミュレータの本質は非常に多様だが、ボストロム氏ははじめに我々の知覚された現実が仮想である可能性を検討していない。哲学的で科学的なルミネーション(反芻)に加えて、人間の意識がシミュレートされているという考えはSFの世界では不可欠な要素である。映画「マトリックス (1999)」で始まる三部作の中では、生体の化学反応がエネルギーとして収穫されながら、我々の知る世界が人間の脳の活動を維持するためのコンピュータシミュレーションという設定である。マトリックスの中で、人間は完全に没入型の仮想現実環境の中にアバターとして世界を体験する。しかし、シミュレーションは、心構えができた精神がその異常を見破ることができるという欠陥があり、現実の世界から人々がマトリックスをハッキングできた。
ボストロム氏の考えはいくぶん異なる: 彼の考えでは、単に人類だけでなく全宇宙がシミュレーションである。人生の全ての側面がコードの一部であって、それは我々の心やプログラムの非知覚部分との相互作用を含んでいる。しかし、ボストロム氏は、すべてのレベルでの現実の完全なエミュレーションは、強力なコンピューティングシステムでさえ、非現実的だろうと認識している。ちょうど、我々の科学的シミュレーションが抽象化のレベルを含んでいるように、過剰なディテールは要求されない。シミュレーションはおそらくいくつかのルールと仮定を利用しているのだろう。そして、全てのディテールがシミュレーションされる必要はないのだろう。これらは我々が実験を行った時、関わってくるだろう。例えば、「人間が微視的世界を観察することについて考えてみると、シミュレーションは必要な場合に応じて、シミュレーションの適切な領域の中で十分なディテールを伝えることができる」。ボストロム氏は論文「あなたはコンピュータ・シミュレーションの中を生きているのか? (Are You Living in a Computer Simulation?) (2003)」の中で書いている。そのように、プログラムはディテールの中にすべての粒子あるいは銀河を追っていく必要はないが、それらのデータが呼ばれた際、プログラムの中の宇宙は完全に一貫性のある現実を提供する必要がある。人間でさえ常にすべてのディテールの中でエミュレートされる必要はなく、「自分自身」の主観的な認知度が環境によって変化する。漫画「ピーナッツ」の中のライナスと違って、我々は必ずしも自分の舌に気づいているとは限らない。従って、シミュレーションはフォアグラウンドで動作する「舌」のサブルーチンを維持する必要がない。
計算能力の問題にぶつかることなしに、一つの惑星の文明がシミュレートできるということが事実だろう。
これらの哲学的な暗示以外に、シミュレーション仮説はいくつかの科学的問題に答えるのを手助けできる。地球に似た惑星がそれほど稀ではないことから、恒星間の通信あるいは旅行が可能な宇宙では文明が生まれることが十分に可能である。我々は今までのところまだそれに出会っていないので、どこに宇宙人がいるのか?という疑問を残すことになる。しかし、もし我々がシミュレーションの中に生きているなら、単純に宇宙人はプログラムの一部というだけではないかもしれない。事実、計算能力の問題にぶつかることなしに、一つの惑星の文明がシミュレートできるということが事実だろう。
同様に、力の統一理論を見つけることを物理学者が失敗しているのは、シミュレーションの中では不適当なためかもしれない。シミュレーション仮説が「ファインチューニング(微調整)問題」を解決することもできる: 我々の宇宙パラメータは生命を許しているが、それらを変更したことが生命のない宇宙を持たらすかもしれない。シミュレートされた宇宙は最終的に生命の発生が設計されている、あるいは生命が可能になった前には多くの可能なパラメータがテストされ、成功した実験結果の成果なのかもしれない。宇宙論者は、我々の宇宙がどのようにランダムな開始条件から発生したのかを理解するために、同じような(より単純とはいえ)シミュレーションを実行している。
ボストロム氏は、シミュレーション議論を一歩前進させ、「プログラムの中ではエラーが起きてしまうため、ディレクターはシミュレーションを台無しにする前にアノマリーに気付く脳の状態を簡単に編集することができる。あるいは、ディレクターは数秒戻して、問題を回避できるように体験を戻すだろう」。しかし、もし我々が生きているシミュレーションにリアルタイムエラー訂正機能がある場合、見方によっては厄介である。確かに、潜在的に科学活動全体に疑問を投げ掛けることができてしまう。シミュレーションの物理法則を気まぐれに変更してしまうのを防ぐには何をしたらいいのか? テストパラメータ、あるいは単純に我々の頭に干渉することか? そのスキームでは、プログラマはその存在が決して検知されることがなくても、気まぐれでひょとしたら意地の悪い神様になってしまうだろう。
ボストロム氏は、我々がシミュレーションの中に生きていないことより、もっとありそうなことを示すことに主な興味を持っているが、この問題に直面する科学者らは別の疑問を持っている。主な差異は、科学は実験と観察によって検証できるという事実から導き出したものだ。そして、結局のところ、我々が住んでいるかもしれないシミュレーションを推測できる方法があるということだ。
まず、我々がシミュレーションの中に生きているなら、それは明確に定義された法則に従い、それらの法則へのいかなる動的な変更も相対的に小さいはずだ。それは数世紀に渡る科学的アプローチの圧倒的な成功に基づいている。事実、シミュレーション仮説は潜在的な説明能力を持っている。例えば、我々の宇宙が比較的単純な法則に従っている理由は、それがそうするようにプログラムされているからだ。プログラムの実行としてシミュレータを変更する場合、それが2011年に起こった光より速いニュートリノの解決法であったのだ。プログラムはエラーを含んでおり、我々はそのエラーに基づいた何かを計測してしまった。そして、バグはその後に修正された(アノマリーが平凡な説明かつ劇的な代案が無かったため、光より速い結果が事実だったと考える理由は今では無い)。
真相は我々がシミュレーションの中に生きているということかもしれない。しかし、非人間的な神の存在のように、この事実はどのように我々が人生を振る舞おうが関係無いということだ。
しかし、我々がシミュレーションの中にいるのかいないのかを我々に教えてくれるこの宇宙の正当性は何もない。もし、プログラムが明白な「イースター・エッグ」あるいは、デザイナーによって残された隠れたメッセージが存在しない十分な理由であるなら、我々が行ういかなる実験でもシミュレートされた宇宙にいてもいなくても同じ結果を返すだろう。このシナリオでは、どのように哲学者を納得させるかどうかに関わらず、我々が仮想世界にいるかを見分ける手段が無い。真相は我々がシミュレーションの中に生きているということかもしれないが、非人間的な神の存在のように、この現実がどのように我々が人生を振る舞おうが関係無いということだ。
我々はシミュレーションの中に生きている、しかしプログラマーの世界とは異なるという可能性もよく考えてみるべきである。結局のところ、科学者らは現実世界にそのまま一致はしないが、理論を改良することを手助けるモデルをずっと作り出し続けている。そして、そのようなシミュレーションが不完全なエミュレーションなら、コンピュータコードがその存在を示すのかもしれない。もし、宇宙が現代の原子核物理学者によって実行される数値シミュレーションと同じようなものなら、プログラムの必要な単純化が基礎物理学の予測する可能性なのかもしれない。
クォークで作られている陽子と中性子、それらで作られた原子核を考えてみる。全体の乱雑さは、全てを結びつける核の強い力を理解することを要求するが、複雑な相互作用は電子のような単体粒子の一貫性のある処理ではない。しかし、同時に二つ以上の粒子間の作用を、特に高エネルギー下の核の内部に関連する計算は物理学者にとっては非常に難しい。
どんな場所でも移動することを考慮に入れる代わりに、原子核物理学者は、固体結晶の中の原子のように、粒子が三次元格子上で存在するかのように考える。クォークが接近することでエネルギーが増加するので、数値を扱いやすくしておくために固定距離で離れるようし、我々が実験的に見る挙動を再生する。この手の数値計算法は格子量子色力学(LQCD)として知られている。
LQCDの単純な原理が、クォークを記述する方法を考え出した唯一の一貫した方法であるが、アルバート・アインシュタインによって提示された相対性理論を破ってしまう。相対論の中の時空は連続性があり、特別な方向は定義されていない。他方、LQCDの一つとして格子が特別なポイントで特別な方向(ノード間の接続に沿って)を持つ。宇宙線によって生成されるような高エネルギーの衝突が、相対論の予測よりもむしろLQCDに近い振る舞いを示すなら、プログラマーが現代原子核物理学者がやっているのと同じ近似を行っており、我々がシミュレーションの中にいるというサインである。
ドイツのボン大学のサイラス・ビーン教授(現在はワシントン大学)とその同僚らは、これらの道筋に沿って、他の試験可能な偏差を考慮した(重い電子の従兄弟分であるミュー粒子による変則な振る舞いを含む)。しかし、それらのスキームがうまく働かない可能性がある。シミュレーションを書いた人は必ずしも原子核物理学者がするような同じタイプのコードを使うとは限らないので、予想された偏差が現れないかもしれない。偏差は、予測可能な未来にそれらを発見できないような高エネルギー段階で起きていることもあり得る。最後に、時空はシミュレーションの中で生きていることとは違った理由で、格子のように振る舞うかもしれない(多くの物理学者によって真面目に可能性が検討されている)。
公平の立場でいうとで、ビーン氏、ダヴォウディ(Davoudi)氏、サベージ氏ら、原子核物理学者らは、これを承知の上でシミュレーション仮説を検証する方法を提案しているが、彼らのライフワークの中心だと考えるのは誤りである。INSPIREレポジトリ(高エネルギ物理学情報システム)でビーン氏の文献リストを見ると、彼がこの主題で書いた論文はただ一つであることがわかる。残りは標準的なLQCD研究である。私は彼と彼の同僚らは真面目に宇宙シミュレーションに関する研究をしていると確信しているが、ほとんどの研究者がそうである。そして、これらの疑問を興味深いと感じるかも知れないが、答えを調査するために研究生活を捧げてはいない。
一部それが現実的なことだからだ。現代物理学の標準パラダイム内で研究するために資金を得ることができるが、結論が出ないような哲学的な問題として解釈されるような研究にお金を払うのは難しいことである。また一方、問題自身が全く信用できないので、明確になんらかの利益を生むことを示すことはできない。その影響にも関わらず、しばしばポピュラーサイエンスで記事を読むことがあり、人生、宇宙やその他もろもろについての大きな疑問にあなたの人生を捧げるほどの成功のチャンスはほとんど無いといっていい。1920年代の量子力学革命のような大躍進がまれな理由は、それが困難だからである。科学はほとんど段階的に発展を遂げるもので、つまらない内容に見えたとしても、それは決して悪いことではない。
シミュレーションとしての宇宙を調査することの困難さは、求めるべき正しい科学的な疑問を探しだすことで、検証可能な結論を導けるものでなければならない。プログラム管理者が介入して問題をリアルタイムに修復するという宇宙のシミュレーション仮説では、我々は現実の宇宙とエミュレートされた宇宙を区別することができないかも知れない。同じことは検知可能な欠陥の無いシミュレーションにも当てはまる。我々が裏付けが取れる実験の証拠を得ることができなければ、コンピュータプログラムの中で我々が生きているという反論が難しい哲学的なテーマでは虚しく感じる。
我々はシミュレーションの中に生きているのか? 私の直感では「ノー」だ。反対も賛成もない、あるいは必要以上に不快なプログラムが知性の存在であることを信じたくないせいだけではない。(楽園はシミュレーションではないのか?)
科学の力はしばしば一般化、抽象概念化、単純化にある。たとえプログラムの基本的な原則が単純であっても、意識を含む十分にディテールを持つ全宇宙をシミュレートすることは複雑なことである。より単純なものから同じだけを学ぶことができるなら、それと同じ複雑さを持つものをプログラムすることは無駄でいびつに見える。
しかし、それらは直感的な考えであって、正しいかどうかを示すことができるわけではない。より良い避難所はエンピリシズム(経験主義)で、空想的な考えを持たないことだ。科学的視点で、もしシミュレートされた宇宙と現実の宇宙とを識別できなければ、シミュレーションの中に住んでいるという疑問は空論であり、この現実が我々なのであって、我々が全てなのだ。
スタートレックTNGのシーズン6の12話「甦ったモリアーティ教授」はシミュレーション仮説のような話である。