4/08/2017

Netflixの「ザ・ディスカバリー」

The Vergeより。死後の世界の存在が証明されるというプロット、役者はいいんだけど、ガッカリしてしまうドラマ。

私は「ザ・ディスカバリー」をSFに分類するのは気が進まないが、Netflixの新しいドラマは古典的なアイザック・アシモフの前提のようなものがある: 科学者は死後に人間の精神がどこかに行くという反論できない証拠を発見した。彼はどこかは確信できない。素晴らしいSFのように、映画はテレビドラマの可能性を広げるかも知れないというわずかな疑問をもたらす。科学は本当にこのようなことを証明できるのか? すべきなのか? しかし、110分の映画はメロドラマ風の展開を選択して、それらの疑問をほとんど無視している。生命の大きな疑問への答えを見つける科学に関する映画に向け、ザ・ディスカバリーはどのようになぜ我々が答えを学ぶのかに驚くほど無関心である。

ザ・ディスカバリーは、哲学的な会話にのめり込むよりも、その科学的進歩の国内犠牲者に焦点を当てている。ジェイソン・シーゲルは科学的ブレイクスルーを遂げたハーバー博士(ロバート・レッドフォード)の疎遠になった息子ウィルを演じる。ハーバー博士の発見が公開されると、世界的な自殺の流行が続いた。何百万の死者に対して重大な責任を感じ、ウィルは彼のライフワークを撤回することに納得してもらうために父の元に戻る。しかし、ハーバー博士は何よりも知識を求め、後ろに向かって進むのではなく前に進もうとする。

以下、ネタバレ注意

陰鬱な研究施設となった屋敷とその周りを舞台にした映画は、ハーバー、ウィル、そして視聴者が来世は実際に何であるかを確かめる組み立てとなっている。明らかに、視聴者を含め誰でも答えを知りたいと思っているが、映画は満足のいく方法でそれを伝える用意ができていない。来世は、もっぱら物語の終わりの手段、ウィルの個人的成長を進展させる道具として存在する。

要するに、ザ・ディスカバリーはLOSTの最悪の部分が長編映画に凝縮されているようである。ザ・ディスカバリーを動かす哲学的エンジンのように、要約が難しく全体を説明するのが不可能だという内なる葛藤から得る時、LOSTはベストの状態だった。LOSTは問う「厳格な科学や断固とした信仰で、人生の大きな疑問に取り組むことは良いことだろうか?」。科学者ジャックと信仰の人ロックの間の関係でもっとも明確に演じられた実存的な(existential)綱引きは、121のエピソード続いた。LOSTは未完成だった。それは形而上学、ファンサービス、そして突然のランダムなホッキョクグマを詰め込み過ぎ、善と悪、愛と憎悪に関する陳腐な言葉で存在の大きな疑問に答えようとした時、ドラマは苦戦した。

しかし何度も、LOSTは単に宇宙の謎に関してではなく、我々を導く道具としても議論されていた。科学は信仰を前提に証明できるのか? 信仰は科学が答えられない疑問に答えられるか? 科学と信仰はそれらの存在目的において本当に異なるものなのか? これはネットワークテレビだった!

死後の科学に関する映画ザ・ディスカバリーは、少なくとも表面的には科学、信仰、そしてその間の摩擦に関わらせるべきである。神は存在するのか? 天国はどうなのか? もしくは地獄は? しかし、ザ・ディスカバリーは挑戦することを決して目指していないし、少なくともスローモーションで起こる黙示録に魅了されるトゥモロー・ワールド(Children of Men)を超えていない。ザ・ディスカバリーの科学はステロイドを使っているデウス・エクス・マキナのようで、プロットがそれを必要とする目的は何でも役立つ。彼らはお互いに自分の個人的なドラマを明かしている間に行うべきことを皆に与えている。科学者の仕事は一連の冒険を進めるようなものである。死後のマシンをテストするため、彼らは体を必要とし、ウィルとイスラ(ルーニー・マーラ)は死体を盗む(そして、お互いに心を許す)。うまくいかないと、ハーバー博士が志願する(そして息子と難しい話し合いをする)。それから、ウィルが挑戦する(そして、彼自身に関する真実を発見する)。

これらの決定やこの奇妙な装置の道徳上、倫理的、科学的、哲学的疑問を掘り起こすよりむしろ、映画はほとんどおがくず袋と同程度の不思議な人物ウィルに焦点を当てている。

もし、これが信仰に関する映画なら、おそらくそれで十分だろう。LOSTの最終回は放送された際にひどく酷評されたが、少なくともそのエピソードは主要な大きな議論を解決することに取り組んでいた。科学者と信仰の人は、時間から切り離された空間で再開し、他のキャラクターと共に死後の輝きの中に踏み入れる。一部において、時間と空間の疑問に答えるために科学者の必要性についての表現は不可知の存在の美しさや静けさを含む注釈で終わる。

しかし、ザ・ディスカバリーは安らかに眠ることはもちろん、信仰の概念に事実上は対立している。示唆する死後は無限の次元から成り立ち、そこでは全ての人が、大きな後悔が解決されるまで何度も何度も繰り返し体験する。例えばウィルの父を例にとると、初期は死後の研究で頭がいっぱいのハーバー博士は妻が自殺をで亡くなるまで彼女を無視していた。しかし、死後には、ハーバー博士はいよいよという時に妻を見るために2階にに上がって関係を修復できる。そう、それを思うほど詰まらない。

それにしても、ウィルの変化は最悪である。ウィルがマシンをテストすると、我々は映画全体が彼の死後に置かれていることを嗅ぎつける。事実、ウィルはこの世界の無数のバージョンに生き続け、何度も何度も繰り返し修正しようとする。彼の目的は別の人生でフェリーでつかの間出会った見知らぬ人イスラを入水自殺から救うことである。ウィルは彼女を救わなければならないおぼろげな感覚だけの人生後の人生を生きてきた。そして、おそらく全ての人間が何らか似たようなことをしている。

映画は「トワイライト・ゾーン」や「こころのチキンスープ」のとんでもない寄せ集めのように、あたかも愛おしくなるようにこれを上映している。しかし、それは前者のように知的に魅力的でも、後者のように感情的に心地良いわけでもない。チャンスとして描かれるその死後は、実際はシーシュポスの地獄である。それは最も明らかなレベルで奇妙である。ウィルの父は何百万という自殺につながる発見をしたのに、我々はウィルの最大の後悔がフェリーに乗った短い時間を共有した女性を救えなかったことだと信じなければならないのだ。

ザ・ディスカバリーが何なのか不思議さが残っている。科学に関心のないSFなのか? 信仰と愛の歪んだ違いを持った精神的なロマンスなのか? それとも、上記の全てを取り込み、最後には何もないことを望んだ映画なのか? おそらく、ザ・ディスカバリーに関するもっとも不満な点は、似たようなことをしているストーリーに110分も費やされ、まさに映画に欠けているのは、美しさの感覚とスキルである。

今月、最終シーズンとなる第3シーズンに先立ち、LOSTのクリエイターの一人デイモン・リンデロフと担うHBOの「LEFTOVERS/残された世界」は、人口の数パーセントが突如消え去ったように思われる時の地球上に残された人々の物語を伝える。それは悲痛の上に見事な和解(mediation)として始まり、奇妙で、面白く、宇宙的な奇抜で不可知な存在の探求にらせん状に落ちていく。リンデロフはLOSTから学んだように思える。LEFTOVERSはそれ自身が死に至るまでの物語風のねじれにそれほど巻き込まれていないし、科学的正統化にも関心を持っていない。

LEFTOVERSの全ての要素、プロット、設定、キャラクターは存在に関する大きな疑問に役立ち、その逆ではない。そして、それはザ・ディスカバリーで浮き彫りになった重要な教訓である。素晴らしいSF (または単純に素晴らしいジャンルの創作)は、その構成要素を使って世界や人々に関する何かを語る。それは、我々はどこにいたのか、我々はどこにいるのか、我々はどこに向かうのかを探求する。ザ・ディスカバリーは、科学や信仰、ましてや人間に関する映画ではない。むしろ、全ての要素がただ単に、退屈な無限ループを通じて女性を追いかける男の物語に過ぎない。