12/29/2016

ストールマニズムの批評

jancorazza.comより

Stallman

「自由ソフトウェア」は利用者の自由とコミュニティを尊重するソフトウェアを意味します。おおよそで言うと、そのソフトウェアを、実行、コピー、配布、研究、変更、改良する自由を利用者が有することを意味します。ですから、「自由ソフトウェア」は自由の問題であり、値段の問題ではありません。この考え方を理解するには、「ビール飲み放題(free beer)」ではなく「言論の自由(free speech)」を考えてください。わたしたちは無償の意味ではないことを示すのに時々、「自由」を表すフランス語あるいはスペイン語の言葉を借りて「リブレソフトウェア」と呼びます。

わたしたちは、これらの自由のために運動します。なぜならすべての人がその自由に値するからです。これらの自由によって、利用者(個々人のみならず全体として)はプログラムとそのプログラムが利用者になすことを制御します。利用者がプログラムを制御しないとき、わたしたちは、それを「不自由」あるいは「プロプライエタリ」のプログラムと呼びます。不自由なプログラムは、その利用者を制御するでしょう。そして開発者がプログラムを制御します。これは、プログラムを不公正な力の道具とします。

自由ソフトウェアとは?

ストールマニズムとは?

私はストールマンが好きで、ソフトウェアあるいは他のポリティクスに関してしばしば彼に同意しがちだ。この記事は、自由ソフトウェア運動のいくつかのイデオロギーに建設的な批判を試みる。そして、私は「ストールマニズム」と総称して呼んでいる(語呂合わせで)。ストールマンへの個人攻撃への試みではない。読み進めることで、おそらく私のポリティクスがそこからかなり離れた場所にあることがわかるだろう: 彼が運動の中にいて、私が批判するアイデアの主な源が彼自身であることから、私は単純にストールマニズムという言葉を作った。

お馴染みのイデオロギー的な間違い

中心である自由ソフトウェアは解放論者の哲学である: それはコンピュータソフトウェアに関する不公正で息の詰まるような社会的関係を同一に扱っており(コンピュータユーザをコントロールし、従属させる、ソフトウェアの社会的所有を阻む企業や政府の取り組み)、彼らとの苦闘を伝えている。運動のリーダーであるリチャード・ストールマンは、幅広い社会現象として分析したソフトウェア自由支援運動への一般的な取り組みについては概ね正しかった(これは自由社会や上記引用される段落にある自由ソフトウェアという表現によるもっとも有力な証拠である)。しかし、彼の取り組み、そして彼から刺激を受け、彼と共に協力する組織や個人の取り組みには、極めて重大な誤りを内包している: 個々の美徳と純粋さを拾い社会解放運動と混乱していることだ。

ストールマンのレトリックが全ての層でこの問題のあるロジックでいっぱいにしてしまう: 他の人の用語を一致させたり、言葉を浄化させることから(しかし、一部の彼の大前提の声かも)、 使うことによってある種の技術的な禁欲主義を推進すること、そして他用途を勧め、それのみが考えられる限りのあらゆる目的のための自由ソフトウェアである: アプリケーションからファームウェアまでそうである。

前もって注意しておくが、私はこれらが自由であってはならないと言っているのではなく、彼らは絶対的にそうであるべきだ。これは哲学的枠組みの、そして戦略のレベルでの問題であって、価値観のレベルでは実際誤りではない。これを批判することは問題が多い。特に、彼の支援運動がSaaSや複雑な商用JavaScriptプログラムのような明らかな特定の問題に肯定的な実務上の効果がある時はそうである。これらの現象の彼の批判はどうしても欠かせないが、彼のはっきりした反応はない: 例えばGmailを使うのを単純にやめることは人々のための解決策とはいえない。

システマテックな分析はシステマテックな応答が必要である: 主にビジネスを制限するための集団的政治的行動やプライバシーと集団的コントロールへの政府の侵入に根ざしたもの、効果的な代替物 (次の段落を見て欲しい)、そして親しみやすい教育: 禁欲的なものでなく、個人主義で、「私はそれで十分だ」という姿勢である。一般的に、このアプローチは聞き覚えのあるライフスタイルのイデオロギー的な誤りから生じ、呼び起こす: それは自分の好みの変化が政治的行動の始まりと終わりであるという信念である。

代替物の利用に対する彼の示威運動(デモ)はこの説明が役立つ:

わたしたちは自由ソフトウェアをプロプライエタリの「代替物」とは呼びません。なぜなら、その語はすべての「代替物」は妥当であって、追加のそれぞれが、ユーザにとって良いものであると前提しているからです。実効的に、自由ソフトウェアは、ユーザの自由を尊重しないソフトウェアと共存すべきと仮定するのです。

わたしたちは、ほかの人が使うようにソフトウェアを提供するには、自由ソフトウェアとしての配布が唯一の倫理的な方法であると信じています。ほかの方法、不自由なソフトウェアやソフトウェア代替としてのサービスは、ユーザを従属させます。このような自由ソフトウェアの「代替物」をユーザに提供することが良い、とは、わたしたちは考えません。

避けるべき言葉 (あるいは注意深く使う)、含みがあるかまぎらわしいので

隔離されたら、自由ソフトウェアの代替物は存在しないことは明らかである: 自由ソフトウェアの哲学の中心的な教えに同意しているなら、プロプライアタリなソフトウェアが本質的に不公正であるという事実にも同意しなければならない。しかし、敵の存在を無視することがどのようにそれが存在するという事実を変えるのだろうか? それに戦おうとする時、人種や人種差別主義について話さないのと全く同じくらい効果がある。

運動の目標は真に解放にあったが、これは単に修辞的な問題ではなく、個人主義に根ざした誤った分析に対処する問題である。私はこの誤りが2つの重要な実際の第一線で運動の効果に損害を与えると思っている:

1. 奉仕活動

疑わしい分析はそれが超えた時に明確になる: そうしないとそれらが個人レベルで搾取されてしまうため、自由ソフトウェアを使うことを皆に告げることは、単純な選択としてそれを提示することによって、彼らの肩に全体の抑圧的システムの負担を置くにはあまり効果的なアピールではない: あなたは搾取されること選択する。誰もがこの単純な事実を見ただけでも、搾取は存在しなくなるだろう! 他の抑圧的な社会関係に参加する場合、皆が滅多に選択しないのと同じようで、これは明確に誤っている。答えは決して社会から自分自身を切り離すのではなく、それを変えることだ。

主にテクノロジーに精通した自由ソフトウェアユーザにとって、これは真実ではないように見えるだろう: 我々は使用したいと思うソフトウェアに関して選択肢を確かに持っている。しかしこれもまた、ここには個人主義という論理が根底にある。我々は自由に選択できるものの中に単なる孤立した商品としてだけでなく、むしろ社会現象としてソフトウェアを見るべきである: 社会の中で製品、利用法、機能が定義されている。プログラマの労働の成果が根本的に遮断され、残りの社会を引き裂彼、社会が自由でないのは明らかになっている。

このタイプのレトリックはエリート主義の原因となる(気づく、あるいは実際にそうなっている): 我々は自由ソフトウェアを使う人は使わない人々よりも高潔(virtuous)だというメッセージを暗黙のうちに発している。外から見れば、最善の場合、我々の要求は単なる個人的嗜好の言い回しに過ぎない、あるいは最悪の場合は自身の嗜好への攻撃として見えるかも知れない。それは、たとえ我々の動機が本当に共通の自分自身のソフトウェアの要求にあるとしてもだ。

2. 政治的組織

自由ソフトウェアを制度化された支援のための戦いはふつう、非常に肯定的な結果をもたらすが、背後にあるレトリックや動機が問題になるかもしれない: それはしばしば効率性のためのリベラルな要求が絡み合う。例えば、財政的な関心から政府や大学はオープンソースに転換すべきという考え方がそうだ。最も可能性が高い正しい意見に同意する代わりに、我々はソフトウェアが公共財であるべきで、政府や大学が使うものとは一般的に無関係であると指摘すべきである: 重要なのは、我々が使うものをコントロールすることで、それに投資して、誰もが利用できるようにすることだ。もちろん、これはおそらく到達するには非常に困難な目標である。そして、要するに自由ソフトウェアの戦いは自由社会のための闘争であるということを示しているだけだ。

この点において、有力なストールマニストのレトリックは更に欠けている: 一般人の中には、自由ソフトウェアの支援、あるいは考え方としての存在認識はほとんどない。音楽や美術のようなかつては商品だったものが、問題のある交換を行うようになってきたという事実を中心に、iTunesあるいはストリームのようなソフトウェアのついて多くのコンピュータユーザに関係する政治的な問題がある: かつて私有財産だったものが我々から隠されてレンタルされている。FSFは、これが全面的に自由ソフトウェアに関連することだと正しく指摘する: 本質的に、非自由ソフトウェア(プロプライエタリ・ソフトウェア)やDRMは公共財に私益を課すために使われている。しかし、どのようにデジタル商品が共有されるべきかという幅広い政治的問題を解決する代わりに、ストールマンは単に非自由ソフトウェアが要求するDRMの範囲での問題だと示している:

「DRMプログラムの動機は、それを課す人々にとって利益を増すことだが、数百万の人々の自由が危機に瀕している時に、彼らの利益は枝葉の問題である: 利益への欲求は、それ自体間違いではないが、そのテクノロジーを超えて公的コントロールを否定することを正当化できない。自由を守ることは、DRMを阻止することである。」

問題の実際の源につながっていないなら、我々の政治闘争はどうすれば効果があるだろう: 利益? 私はストールマンが個人的に社会財(そして、おそらくは全てのデジタル著作物?)のために芸術の生活に資金提供することについて、とても社会主義的な考えを取り入れていることを知っている。しかし、そのようなアプローチは自由ソフトウェア哲学には極めて重要である。

政治の階級力学を理解し受け入れることは極めて重要で、我々の効果はそれらの関心を人々に説明することにはないということに気づくには、むしろそれらを達成する最良の方法は組織化することである。例えば、Windows 10の偵察に激怒している全ての人々が、これら問題の根本原因を正しく理解するため、統合された政治方針とそれらに抵抗するために適切な方法がを与えられと想像してみてほしい!

ウーバーに関するエフゲニー・モロゾフの記事は、民営化と技術を概念化する方法について、この考えをさらに詳しく説明している。

何がなされるべきか?

自由ソフトウェア活動家は、ソフトウェアの自由が孤立した問題ではなく、自分自身と完全に独立した価値観を持ち、公正のために幅広い奮闘の一面であり、資本主義の下では完全にソフトウェアの公正を決して達成できないこと受け入れるべきだ。孤立した論理から解放されたら、次の明白な段階は我々のアドボカシー、批評、教材にそれを統合することだ。

もっと一般的だが、重要な認識は効果のある政治的戦略ではなく、この種の不参加は特権であるべきだ。我々は「自由ソフトウェア→自由社会」という意味合いを頭に入れておくべきだ: 自由社会→自由ソフトウェア。

先頭の画像はここから取った: http://hackaday.com/2016/01/13/stallmans-one-mistake/ 作者: ジョー・キム

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